高倉天皇の承安元年(1171年)
気候不順にして
五穀が稔らず諸人たちが困窮するを
陸奥守藤原秀衡大いに憂い、
山城の国なる加茂大神のご分霊を
名取川の河上清水峠に勧請して
鎮め祀り雷神社とし称し
五穀豊穣を祈願、
霊験あらたかに豊作続くが、
その後、文治4年(1188年)の夏、
大洪水によりて社は
名取川を流れ下り、
柳生の里に着き給いしを、
里人これより産土神と崇め奉った。
「雷神社伝承より」
その後、明治5年5月村社に列せられ、同40年3月幣帛供神社の指定をうけましたが、明治22年4月の町村制発布により地区4ヶ村、旧前田村・旧柳生村・旧四郎丸村・旧袋原村が合併し中田村となったことに伴い、旧各村に各々村社として鎮座していた神社も合祀することになりました。
明治42年3月宮城県に神社合祀の申請許可を得て、旧柳生村村社 雷神社に、旧前田村村社 神明社・旧四郎丸村村社 神明社・旧袋原村村社 八坂神社を、更に旧前田村の無格社 老女宮・熊野神社を合祀し、中田村神社と称号して鎮座しましたが、柳生は村の西側に位置し、東にある袋原・四郎丸の村民氏子の参拝に不便をきたすことから、再度宮城県に神社遷座の申請許可を得て、明治43年5月8日、現在地に遷座し当地区産土神として鎮座いたしました。
明治43年 5月8日
4月29日